社が緑仙と仲良くなるだけ 上
Added 2021-09-30 00:36:21 +0000 UTC蓋を開けてみると、中に入っていたのはパンパンに膨らんだコンドームだった。 その日、にじさんじに届いたファンからの小さな箱。綺麗な空色のプレゼントボックスに入っていたのは、大量の精液が詰め込まれた、グロテスクな風船であった。 女性アイドルに対し、こうした悪質な贈り物が届くというのは、よく聞く話だ。 しかし、今回の歪なプレゼントを差し向けられたのは、アイドルでもなければ、女性でもなかった。 「よ、世の中には高次元の変態がいるんだな……」 場所は、にじさんじオフィスの休憩室。 社築は自分宛に送られてきたプレゼントボックスを前に、引き攣った笑みを浮かべた。 時間帯は昼。さっきまで、同僚の笹木咲と談笑しながらご飯を食べていたところである。この衝撃的な光景を見るのが、食事前で良かった。 いや、そんなことよりも。 (よりにもよって、俺みたいなのにこういうのが届くとは) こんなことなら、自分も他の女性ライバーと同じように、スタッフに一旦目を通してもらっておくのだった。まさか男の、それも年がら年中目の死んだ大男の自分に、こんなもの届かないだろうと、高を括っていた己の不用心さが恨めしい。 (どうしよう……。やっぱ、最初はスタッフへの相談だよな……) こうしたことは、早い段階で社内に共有したほうがいい。他の男性ライバーが似たような被害に遭わないためにも、一度ファンからのプレゼントへの対応について、練り直すべきなのかもしれない。 ひとまず、親しいスタッフに相談しよう。 社が行動を起こそうとした、ちょうどその時である。 「やーしろ。どうしたの?」 背後から、誰かに呼びかけられた。透き通ったハスキーボイス。低い少女の声にも、高い少年の声にも聞こえる、中性的な響き。 聞き覚えがあった。 振り返る。 深いエメラルド色のショートカットに、三つ編み。 薄紫色の大きな瞳。 ほんのり血が透ける白い肌。 美しい少女が、立っていた。 否、正確には少女のような少年が、社の手元を覗き込んでいた。 「りゅ、緑仙……」 「おっす」 同じくにじさんじに所属する同僚であり、プライベートでも付き合いのあるライバー、緑仙であった。 「あ、ちょっと。今、机の下に何か隠しただろ」 白い手が、するりと伸びてくる。社は反射的に止めようとしたが、それよりも早く緑仙が件の箱を机の上に引きずり出した。まるで叩きつけるように強く置いたので、衝撃で蓋が取れる。 濃い栗の花の匂いが、どろりと鼻腔を犯す。 「……うわ」 緑仙の綺麗な顔に嫌悪感が広がる。 だから見せたくなかったのにと、社は苦虫を噛み潰したような顔になった。 自分が吐き出した精液ではないが、それでもいたたまれない気持ちになる。 「……社にも、こういうの送られてくるんだね」 「……にも? まさか、お前も?」 コクリと、緑仙は眉を顰めて頷いた。 確かに、彼はとても可愛らしい顔をしている。いやらしい劣情を向けられるのも、分かる気がした。 緑仙は少しだけ沈黙し、意を決したように口を開いた。 「……僕から、スタッフに言っとくよ」 「え?」 思わず聞き返すと、「だからさ」と彼は続けた。 「僕、こういうの結構慣れてるからさ。どのスタッフにどんな風に伝えれば、早く対応してもらえるか知ってんだ」 「で、でも」 「いいから」 有無を言わさぬ強い口調であった。 その薄紫の瞳は、頑なな光を放っていた。 社は生来、押しに弱い。 他人が、それも緑仙のような子供がこの不気味な件に関わるのは気が引けたが、結局はお願いすることにした。 それが、三週間前のことである。 「お、ジャガイモとニンジンが安いな。冷蔵庫にタマネギが残ってるし、今晩はカレーにするか」 「えー、またぁ? 昨日も一昨日もカレーだったじゃん。僕、そろそろ違うのが食べたいんだけど」 緑仙が口を尖らせて文句を言うが、聞こえないふりをする。 三週間連続で朝食に夕食、休みの日には昼食までご馳走しているのだから、多少のメニュー被りは勘弁してほしいところだ。もっと言えば、社は週五でカレーを摂取しなければ手が震える体質なので、これでも譲歩している方なのである。 そんなことを思いながら、社は隣で買い物かごを覗き込む緑仙を、ちらりと見た。 二人は今、スーパーに来ていた。夕飯の買い出しのためだ。 今日もまた、緑仙が社のマンションに泊まりに来るのである。 コンドーム事件があってからというもの、彼らはよく行動を共にするようになった。 互いの仕事や学校がある時間、あるいは収録や配信で別々になる時間以外は、基本的に二人で過ごしている。 緑仙曰く、ボディーガードの真似事らしい。 彼経由でコンドーム事件を知ったスタッフから、社の護衛を頼まれたのだそうだ。 「一応、少林寺拳法で黒帯クラスだからな、僕」 誇らしげに胸を張る緑仙の姿を思い出すと、いまだに社は苦笑してしまう。体格差やリングフィット歴を考えると、確実に自分のほうが屈強かつタフなので、守ってもらう必要性が絶無だからだ。 それでも、緑仙がボディーガードとして、常に傍にいてくれることは嬉しかった。 それだけ、自分のことを大切な友人として思ってくれているのだから。 しかし、ボディーガードと言ってもやることは普段と変わらない。 一緒にカラオケに行ったり、MTGをしたり、若干古めのロボットアニメを見たり、今までと同じように友達付き合いを続けているだけだ。 否、今までと同じというのは少し語弊があるかもしれない。 あの事件が起きる直前までは、互いの番組の増加でだんだんと遊ぶ時間も減っていたのだし。 「社はさー」 「ん?」 緑仙はジャガイモを買い物かごに入れながら、こちらを見ることなく続けた。 「僕との時間が増えてさ、ぶっちゃけどう?」 「どう……とは?」 カレールーを買い物かごに入れながら尋ねてみれば、緑仙は何でもないような口調で言った。 「べっつにー? ただ、その……僕のこと鬱陶しく思ってないかなー、とか」 「いや、何でそんなこと聞くんだよ」 足を止め、傍に佇む彼に視線を送る。ぴょこんと立ったエメラルドのアホ毛が、視界で揺れた。 緑仙はやはり視線を合わせることなく、言った。 「……僕さー。今まであんまり、友達って出来たことなかったからさー。……ちょうどいい距離感も、よく分かんなくてさー」 その声は、平坦だった。何でもないような声。 何でもないように見せかける、取り繕った声。 嘘の声だと、社には分かった。 これでも、それなりに付き合いは長いのだ。 「社があんまり遊んでくれなくなったのも……僕のそーいうとこが、いけなかったのかなーって」 「……ばーか。考え過ぎだっつーの」 無意識のうちに、社は緑仙の頭をワシャワシャと撫でていた。「わっ」と小さな驚きが、彼の口から漏れる。髪がぼさぼさと逆立ち、アホ毛が隠れる。 薄紫色の瞳が、見上げてきた。 ようやくかち合った視線は、不安げに揺れていた。 (……そうだよな。こいつもまだ高校生だし……色々、揺れる時期だよな) 三十路間近な自分と趣味趣向がいくら合致するからといって、彼はまだ少年なのだ。それも、他に友達があまりいない少年である。 そんな彼が、数少ない親しい人間である自分と疎遠になったのだから、不安になって当然だろう。 (やっちまったなぁ。大人として、もっとちゃんと見ててやるんだった) 社は己の気の回らなさを悔いた。緑仙のことは同僚であると同時に、大切な友達とも思っている。にもかかわらず、彼の抱く不安に気づいてあげられなかったのだ。情けないことこの上ない。 少しの沈黙。そして、社は意を決して緑仙に言った。 「俺はお前との時間が増えて、すげえ楽しいよ」 「……え?」 少年の揺れる眼差しに、少しだけ照れたように頬を掻きながら、社は答えた。 「なんつーかな。高校の頃のノリで、一緒に遊べる仲間がいるのってさ。俺みたいなオッサンにとっては、すげーありがたかったりするんだよ。……俺、お前と一緒にアニメ見たりMTGやったり、カラオケ行ったりするとさ。その間ずっと童心に帰れるっつーか……すごく、楽しいんだよな」 緑仙は何も言わない。ただ、社の方を見つめていた。 その瞳にうずくまる不安が、少しずつ解けていくのが分かった。 社は、照れ臭そうに笑って、それでも確かな口調で言った。 「ありがとな。……俺と、友達になってくれて」 緑仙の白い頬が、薄く桃色を宿すのが分かった。 しっとりと首を濡らしつつ、彼は自らの緑の三つ編みをくるくる指で巻きながら、上擦った声を出した。 「う、うへえ。何このおっさん、めっちゃチョロいんだけど。僕がちょっと凹んだフリしただけで、そんな恥ずかしい台詞言うとかさー」 「ふはは、照れんな照れんな」 「照れてねーし!」 顔を赤く染めた緑仙の突きが脇腹に刺さる。「ごふぇっ!?」と不細工な声が肺から漏れたが、それでも社は笑っていた。 可愛い奴だと、心底思った。 ほにゃほにゃと微笑む社に、緑仙は口元をわなわな震わせて、片眉を吊り上げた。 「何だよ、その恵比寿顔。むかつくなぁ」 「すまんすまん。機嫌直せって」 「けっ。どうしよっかなー」 そっぽを向き、分かりやすくむくれて見せる。 スーパーの電灯が緑仙の長い睫毛に絡み、光の粒を生んだ。 くるりと振り向いた時、彼の頬はやはり桃色のままだった。 「……そーいえば、社って明日休みだよね?」 「ん? ああ、そうだな」 「じゃあさ、どっか料理の美味しいところ連れてけよな。それで機嫌直してあげる。あ、もちろんカレー以外でね」 にひひ、と悪戯っぽい笑みを浮かべる緑仙に、社は咄嗟に財布の心配をしながらも、頷いた。 「しょうがねえな。その代わり、あんま高いところには連れてけないぞ?」 「えー、何だよ。甲斐性なしだなー。……じゃあ、ご飯はサイゼとかでいいや。その代わり、映画とか連れてってよ。最近、おもしろいやつが沢山やってるみたいだし」 「……ポップコーン代ぐらいなら奢ってやる」 「はー? ケチじゃん」 不機嫌そうな声を出しつつも、緑仙の口元はにやつきを隠しきれてなかった。心なしか、アホ毛も楽しそうにピョコピョコ揺れているようだ。 足取り軽く、華奢な体が前を歩いていく。とにもかくにも、彼が元気になって良かった。社はそんなことを思いつつ、一歩踏み出そうとした。 その時であった。 「お、やしきずー」 鈴を転がしたような、高い声が聞こえてきた。 そちらを見れば、桃色の髪をした小さな少女が手を振っていた。 「笹木」 「よっ。相変わらず辛気臭い顔しとるなー」 憎たらしい口を利きながら、パンダフードを被った笹木咲が小走りで近寄ってきた。ピンクの大きな瞳が、買い物かごを覗き込む。 「お、今日はカレーですか。ほんま、オタクくんはカレーが好きやなぁ。好みが子供の頃から変わっとらんのとちゃう? 成長がありませんなー」 「うっせーよ馬鹿。俺はスパイスが切れるとイライラしてくるんだ。心身の健康のためにカレーは必要不可欠なんだよ」 手をパタパタと振り、追い払うような動作をするが、笹木は離れることなくニヤニヤ笑った。 「でも、独り身でカレー作っても余るやろ? いくら不可欠でも、一人寂しくカレーつつくんじゃ空しいやんね? 久々に、うちが食べるの手伝ったろか──」 「やめろよ、そんなこと」 彼女の言葉を、少年の声が遮った。 見れば、緑仙が社の買い物かごを掴むようにして、隣に立っていた。 薄紫の瞳が笹木を睨む。 「あ……え? りゅ、緑仙? い、居たんか。奇遇、やね?」 強い視線で射貫かれ、彼女は少しだけ怯んだようだった。 社は困惑した。緑仙の顔に、怖いものが微かに滲んでいるように見えた。 「……あ、ごめん。何かキツイ言い方になっちゃった」 しかし、そんな表情は一瞬だった。彼はすぐに口元を綻ばせて、言った。 「えっと、実はさ。今日のカレーは、僕が一緒に食べることになってるから無理なんだ。ほら、社って独り暮らし拗らせてるから、家にカレー用の皿が二人分ぐらいしかないんだよ。だから、笹木も入ってきちゃうと、社は手を皿代わりにして食べる羽目になるんだよね」 「あ、そうなん。そら、確かに可哀想かもなあ」 なぜ家主である自分が、真っ先に皿の利用権を手放しているのか分からなかったが、社は口を挟まないようにした。この二人を相手取って論戦を起こすなど馬鹿らしい。ケチョンケチョンに揶揄われて終わる結果が目に見えている。 やれやれと首を横に振り、笹木はじとっとした目を社に向けた。 「ま、そんならしゃーないわ。その代わり、やしきず。明日はちゃんとうちをもてなすんやで?」 「え、明日?」 社は目を丸くする。それは緑仙も同じだった。彼は目を見開き、非難の視線を社のほうに向けてきた。 「……社、どういうこと?」 「いや……俺も、いまいちピンと来てなくて」 「はぁ!? やしきず、何言っとるん!? 明日は、うちと一日中ゲームするって約束だったやん! 三週間前に、互いのスケジュール見て決めたやんか!?」 三週間前。 社は自分の記憶を遡った。ちょうどあの事件が起こったぐらいの時期だ。 そこで、彼はようやく思い出した。あのコンドーム入り箱が届く一時間前ぐらいに、笹木が丸一日ぶっ通しゲーム企画を持ちかけていたことを。 (や、やばいやばい! そういえばそうだった! コンドームのせいで完全に頭から吹き飛んでた!) 緑仙を見る。彼は静かな怒りが滲む、冷たい表情を浮かべていた。怖かったので、笹木を見る。彼女も彼女で、不安そうな顔を作っていた。それどころか、瞳が涙で潤みはじめていた。罪悪感が半端ではない。 「……ったく。しょうがないなぁ」 立ち込める気まずい空気を破ったのは、意外にも緑仙であった。 彼は眉を八の字に崩すと、ため息混じりに笑った。 「ま、先約が入ってたんなら仕方ない。今回は僕が大人になってやるよ。別に、社と一緒に映画行くなんて、いつでもできるしー」 「お、おう。悪い。この埋め合わせは、近いうちに必ず」 「じゃあチケット代も奢りな」 うぐぅ、と呻けば、緑仙は少しだけ楽しそうに笑った。 それから、社の服の袖を軽くつまみ、言った。 「そんじゃ、世間話も終わったことだしさ。帰ろ? 社」 「あ、ああ。そうだな」 頬を掻きながら、そう頷いた時だった。 「ちょっと、待って」 小さな掌が、社の手首を掴んだ。 笹木であった。 「気のせいやったら、ごめんな。……最近、やしきずと緑仙、すごく仲良くない?」 縋るように、ピンク色の瞳が見上げてきた。 何故か、不安そうであった。 社は彼女の心情がよく分からなかったが、とりあえず首を縦に振った。 「そりゃ、俺たちは心の友だしな」 「……うちだって、やしきずと友達やんか。なのに……何か、緑仙とばっか一緒におらん? ご飯とかも前までは……うちと、食べとったのに」 確かに、振り返ってみれば、前までは笹木といた時間が、そっくりそのまま緑仙といる時間に代わっているような気がする。 社は出来るだけ深刻な空気にならないよう、少し冗談っぽい口調で言った。 「仕方ねえじゃん。緑仙は俺のボディーガードなんだし」 「へ?」 笹木がポカンとした。 とりあえず、社は自分が緑仙と一緒にいることが増えた理由について説明した。 流石に精液入りのコンドームについては伏せておいたが、自分宛に不審な贈り物が届いたので、護衛代わりに少林寺拳法を修めた緑仙と一緒に行動しているのだと、ところどころぼかしながら話した。 「ほーん。世の中には、妙な輩もおるもんやなあ」 笹木は少し呆れたように言ってから、しかし心配そうな顔をした。 「でも……今後そういうことがあったら、うちにも言ってな?」 「え? 何で?」 「な、何でって……うちだって、やしきずのこと……少しは大切に思っとるし。……だから、困ったことがあったら、頼ってほしいし」 目を逸らしつつ、笹木はブツブツと呟くように溢した。 何だか、その全てが社には可愛らしく見えた。 気づけば、ワシャワシャと彼女の頭を撫でていた。 「あっ! ちょ、何すんねん! 髪は乙女の魂やぞ!?」 「え? あ、いや。すまん、つい出来心で」 「痴漢の言い訳やん。出るとこ出るぞ陰キャ」 「ひえっ」 見る見る青ざめる社をしばらく睨み、そこで堪えきれなくなったのか、笹木は小さく噴き出した。 「ぷぷっ。ま、ええよ。今回は許したる。その分、明日はちゃんと接待せえよ。お菓子とか用意しとくんやぞ? さくさくぱんだとか」 「共食いじゃん」 「はー!? ぶっ飛ばすぞオターー」 「もういい? 笹木」 じゃれだした二人を、冷たい声が引き裂いた。 緑仙が、凍りつくような目で、こちらを見ていた。 「社も。いつまでそうやって騒いでる気? 早くしないと、暗くなるよ。ご飯の準備もあるし、そろそろ帰らないと」 「お、おう。すまん。……じゃ、じゃあな。笹木」 「……待って」 別れの挨拶など聞こえなかったように、笹木が言った。 「なあ、緑仙。最後に、一つ聞かせて」 「……僕たち、急いでるんだけど」 「ええやん。どうしても気になることがあるんやよ」 笹木が笑う。 その目を見て、社は冷や汗をかいた。 口元は綻んでるのに、そのピンクの瞳には、人でも殺しそうな敵意が満ちていたから。 「……うち、やしきずに変なもんが届いたなんて、スタッフさんから聞いとらんのやけど。普通、所属ライバーが何か迷惑被ったなら、会社から大なり小なり注意喚起があるもんなんやないの?」 「……何が言いたいの?」 緑仙の冷たい声が、三人の空間の温度を下げる。 しかし、笹木は怯まなかった。チキンで鳴らす彼女が、今は何も怖いものなどないかのように、眼光鋭く吐き捨てた。 「緑仙、ほんまにスタッフさんに伝えたん? やしきずに送られてきたプレゼントのこと」 「……は? 訳わかんないんだけど。何で僕が贈り物のこと隠さなきゃいけないんだよ。自分が社の現状知らなくて悔しいからって、変に勘繰るの止めてくんない?」 「……何やと」 社は二人から滲み出す空気が、肌に纏わりつく重力を強めているように感じられた。猛烈に胃が痛くなった。何だか、会社でのピリついた人間関係が思い起こされた。 これはよろしくない。どうにかして、空気を和らげなければ。 社はおどけた声を出した。 「ま、まあまあ。二人とも落ち着けって。どうしたんだ? スパイスが切れたか? カレー食べるか? 社おじさんの作るカレーは美味いぞー、絆イベント待ったなしだぞー」 少年と少女はしばらく無言だったが、やがて緑仙が社の手を引いて歩き始めた。笹木は離れていく二人を怖い目で見つめてから、踵を返した。 空には、夜が顔を出し始めていた。 マンションから帰っても、しばらく社と緑仙は何も喋らなかった。 先ほどの笹木とのやり取りが、嫌な感触として心にこびりついていた。 とりあえずキッチンで野菜を洗いながら、緑仙の様子を伺う。彼はソファーに体を預けながら、スマートフォンを見ていた。手伝いをする気は皆無のようだ。 「緑仙。俺がカレー作ってる間に、風呂入っとくか?」 「……ん」 承諾とも拒否ともつかないくぐもった声を発し、緑仙は胸に抱えているパンダのぬいぐるみに顔を埋めた。 しばしの沈黙。 緑仙は体勢はそのままに、口を開いた。 「……社はさ。笹木のこと、どう思ってるの」 「え?」 突然の質問に戸惑いつつも、社は少し考えて、慎重に答えた。 「……まあ、歳の離れた妹か、姪みたいなもんだな。すげー生意気な」 「……ふふっ。何だよそれ」 緑仙は少し、楽しそうな声を出した。 それだけで、社は嬉しかった。 先ほどの張り詰めた空気を考えれば、普段通りの反応を見せてくれるだけで、ホッとするというものだ。 「……じゃーさ。僕は?」 「……まあ、親友だよ。なんか、弟みたいな感じの」 「……うん。今は、それでいいや」 今度は少し、寂しそうな声を出した。 社はわずかに慌てて、意識的に明るい口調で言った。 「ところで、緑仙。明日、どうするんだ? 笹木、来るけど。……良ければ一緒にゲームしようぜ。きっと、三人でやった方が楽しいし」 「……いや、いい。僕、笹木が来てる間は外出てるよ。その方が、あいつも楽しいだろうし」 「……笹木も、お前がいた方が」 「そういうのいいから」 緑仙は会話を打ち切るように、立ち上がった。 そして、ゆっくり上着を脱いだ。白い少女のようななだらかな肩が、露わになった。 社は思わず、目を逸らしてしまう。相手が男だと分かっていても、緑仙の中性的な裸体は、童貞の彼には毒だった。 「ふ、風呂入るなら脱衣所で着替えろよ」 「いーじゃん、別に。男同士なんだし」 緑仙が振り返り、にやにやと揶揄うような笑みを漏らす。胸は隠しているが、それがかえって扇情的ですらある。 「何なら、お背中流しましょうか? 築さん?」 「ば、馬鹿なこと言ってないで早く入れ!」 「うわ、つまんないやつー」 小馬鹿にしたように語尾を伸ばしながら、緑仙は風呂場に引っ込もうとした。 その時、充電中の社のスマホが鳴った。 ライン通知である。 「あ、ごめん緑仙。誰からのラインかだけ、確認しといてくれないか?」 「えー、仕方ないなー」 緑仙はぶつくさ垂れながら、スマホを拾い上げた。 「誰からだった?」 「……笹木。明日、朝から行くから早起きしろだってさ」 「ははは、何だそりゃ。せっかちな奴だなあ」 「……本当にね」 緑仙は再びスマホを置くと、今度こそ風呂場に消えた。無言であった。 彼はそれからしばらく、極端に口数が減った。風呂から上がった時も、カレーを食べている時も、社が脱衣所に入るのを見送る時も。 「うわぁっ!!?」 そんな彼が悲鳴を上げたのは、午後九時を回ってからのことだ。 「どうした、緑仙!?」 「ゆ、郵便受けに」 社は震える彼の指が示す先を見た。 郵便受けだ。 そこに、白い何かが転がっていた。 不振に思い、近づいて確認した。 凄まじい生臭さに、言葉を失った。 それは、大量の精液が染み込んだ、ティッシュの塊であった。 頭の中で、高密度の混乱が渦巻く。 なぜ、一般には知らせていないはずの自宅に、こんなものが入っているのか。 これを入れたのは、前回のコンドームの送り主と同一人物か。 いつ、入れたのか。 何にしても、最悪である。 こんなことをしてくるような危険人物に、自分のアパートを知られてしまっているのだから。 「……しばらく、ここから出た方がいいんじゃない? また、こんなことがあるといけないし」 おずおずと、緑仙が言った。 「そうだ。僕んちに来いよ。ここより少し狭いけど、案外快適だよ?」 「……そう、だな」 社は友人の言葉に、ひとまず従おうと思い、頷いた。 緑仙はパアッと、明るい表情を浮かべた。 「よし、決まり! じゃあ、早くしよ? 明日には引っ越せるぐらいに」 「あ……うん。……でも」 「笹木との約束? 大丈夫だって。あいつも馬鹿じゃないんだ。こっちの事情を伝えたら、分かってくれるよ」 その言葉を聞いても罪悪感は拭えなかったが、下手に彼女を迎えた後に、不審者が侵入してこないとも限らない。 結局、万全を期すなら手は一つしかないのだ。 「……そう、だな。……笹木には後で、ラインしとく」 疲れた顔で言ってから、社は改めて郵便受けのティッシュを見た。視界に入れるだけでも嫌だったが、それでも早く片付けねばこびりついてしまう。 「緑仙。悪いけど、茶の間からティッシュ取ってきてくれない? あれ、片さないとだし」 「え? あ、うん。分かった」 一分もしないうちに、彼はティッシュケースを持ってきた。既にフタは開いている。 社はそこから3枚ほど抜き取ると、重ねた上で郵便受けの汚物に被せ、摘んだ。 (う……濃いな、ゼリーみたいだ……) ティッシュ越しにも分かる、半分固形になった白濁液の感触に、胸が悪くなるようだ。 量も凄まじく、ドロドロに湿ったティッシュは、ずっしりと重い。 匂いも強烈だ。社が時たま自慰で出す薄い精液とは大違いで、精虫が空気を伝い鼻腔に侵入するような、凄まじい生臭さを放っている。 「……それ出した奴、凄い絶倫みたいだね」 いつの間にか、緑仙が社の背後にいた。彼が汚物処理する姿を、じっくり観察している。 出来れば高校男子に、こんな汚い物を見せたくはない。少しだけ焦り、思わずティッシュを摘む力が強くなる。 ブチュリと、汚らしい音がした。 続いて、指の腹に感じるヌルリとした感触。 ゼリーのような精液が、ティッシュを突き破り、社の指に絡んだのである。 その生温かさに鳥肌が立ち、手を離す。ティッシュは白く太い糸を引き、ゆっくりと床に落ちた。 精液は社の指を舐め回すように、覆った。五指を開いてみると、粘る精子が水かきのような膜を作っていた。 「ご、ごめんな。汚いもん見せちまったな。すぐ、片付けるから」 社は急いで落ちたティッシュを拾うと、便所に持っていき、流した。 緑仙には、一瞥もくれずに。 だから、社は気づかなかったのだ。 少年が、白濁液で汚れる彼を見て、生唾を飲み込んだことに。 その股間を、大きく膨らませていたことに。 「やしろぉ……」 甘い声が耳に絡みつく。 白い裸体が、ベッドに横たわっている。 緑色の髪が乱れ、頬は熟した桃のように紅く染まり、汗がしっとりと滲む。 社は緑仙を、押し倒していた。 栗の花の匂いが、うっすらと漂う。精液の予感。社の痛いほど勃起した陰茎から、立ち上っているのだ。 背中に細い腕が纏わりつく。緑仙が下から抱き締めてきたのだ。二人の距離が潰れる。 腹に、熱い感触が触れた。 クリトリスのように小さな、緑仙のペニスだった。 薄桃色の亀頭は、それでも精一杯膨らみ、彼の昂りを主張している。 「やしろ。やしろ。すき。すきぃ……」 縋るような声を発しながら、緑仙は社の腹筋に陰茎を擦り付けた。とろりと、透明な熱い汁が鈴口から漏れている。その先走りを、まるでマーキングでもするように、社の肌に刷り込んでいく。 所作の一つ一つが、とても淫靡だ。 緑仙の濡れた視線が、精の匂いが、体温が、社の睾丸を重くしていく。 なのに、彼は心のどこかで冷めていた。 否、醒めていた。 (ああ、これは夢だな) 社は目の前で乱れる友人を見つめながら、そんなことを思っていた。 明晰夢だった。 (溜まってるのかな、俺) 緑仙と住むようになって、社はまともにオナニーも出来ていなかった。それが、このようないやらしい夢を象っているのだ。そんな分析をした。 (……最低だ) 自己嫌悪が這い上る。 いくら何でも、自分を慕ってくれている少年でこんな淫夢を見るなど、浅ましすぎる。 それどころではない。夢というのは、大なり小なり願望を映し出すものだ。自分は心のどこかで、あの少女のように美しい少年と、セックスしたいと思っているのだろうか。 くちゅくちゅくちゅ。せわしない水音が聞こえる。見れば、社の下に寝ている緑仙が、自身を慰めているところだった。細い指を小さな陰茎に絡ませ、激しく上下に擦っている。 「やしろ……何考えてるの? 僕を見てよ。愛してよ、やしろ……」 「……緑仙」 緑仙は今にも泣きそうな顔で、自慰に耽っていた。 「やだ。やだよ、やしろ。僕のことだけ考えてくれないと嫌だ。他のやつのことなんて、どうでもいいじゃん。……笹木なんて、どうでも」 ぐちゅぐちゅぐちゅ。水音が激しくなる。緑仙の可愛らしい顔が、更に淫らに歪んでいく。絶頂が近いようだ。精液の匂いが強まる。 社は思わず目を逸らした。緑仙の姿を見るのは、とても卑しいことだと感じた。現実の彼を汚す行為だと思った。 早く醒めろ、早く醒めろ。そんなことを願う。 なのに、水音は更に激しくなる。栗の花の匂いはもっと濃くなる。とてつもないリアリティーだ。億を超える透明な精子たちが、鼻の粘膜に着床しようと泳いでるような、強烈な淫臭。 あの汚らしいティッシュが、脳裏に浮かんだ。 誰のものかも分からない、雄の漲る放精を受け止めたような、ずっしりと重たいオナティッシュ。 社はぼんやりと、自分のペニスを見た。 グロテスクに怒張した竿が、存在を主張している。 (俺のチンコって、こんなにデカかったっけ) 完全に露出した亀頭が、テラテラと輝いている。長さは二十センチはあるだろうか。太さも、トイレットペーパーの芯では入りきらないほどだ。睾丸もデップリと肥え太り、ピンポン球を軽く凌駕している。 こういう陰茎からなら、あのゼリーのような精子が放たれるのかもしれない。そんな迫力がある、凄まじい巨根だった。 その先っちょから、ひっきりなしに真っ白な汁が漏れている。 普段の社の精液よりも濃いように思われる、規格外の先走りだ。それだけで雌を孕ませられそうな、優れた性機能が匂いと共に漂ってくる。 ああ、俺はこのペニスに狙われているんだ。 そんなことを、思って。 (……あれ) 気付く。 自分が既に、目を覚ましていることに。 それなのに、匂いも、水音も、陰茎も、消えなかった。 社の眼前で、グジュリ、ブジュリと、精子の塊を練り上げるような、粘い音が吐き出されている。 「やしろ。すき。だいすき」 甘い声が、聞こえる。 緑仙の淫靡な囁き。 夢ではない、現実に足を置く確かな言葉。 窓から差し込む月光が、彼の紅く上気した肌を照らしていた。 彼の姿を、照らしていた。 規格外の陰茎が、その股から生えていた。 ヒュウ、と喉から細い息が漏れた。 そのグロテスクな男根に、社は反射的に恐怖していたのだ。 同時に、思う。 この少年は、何をしていた? オナニーだ。マスターべーションだ。 何を見ながら? 自分の、寝顔。 緑仙は社の寝顔をオカズにして、自慰に耽っていたのだ。 その事実に、目が点になる。 緑仙の凶悪な、血管がメロンの網のように浮き出た、交尾に特化した男根。 それと相反するような、可憐な少女の如き容姿。 その二つを、無意識のうちに見比べて。 そして、緑仙と目が合った。 「えっ、やし……ろ゛ぉっ!!♡」 ぐびゅう、と重い射精音が鼓膜にのしかかる。 餅のように白く、弾力のある熱の塊が顔にへばりつく。 脳味噌が全て金玉になってしまったと錯覚するほど、暴力的なまでに濃い栗の花の匂い。 社は緑仙に、顔射されていた。 「フゥーッ!♡ フゥーッ!!♡」 荒い息が、少年の喉から噴き上がる。 薄紫の目には、獣のように獰猛な光が宿っていた。 好みの雌を手籠にしようとする、強い雄の目だ。 「やっちゃった……! 社の顔にぶっかけちゃった……! バレた……! 終わりじゃん、こんなの……! こんなのぉ……!♡」 次の瞬間、緑仙は凄い力で社にのしかかってきた。 裸になった下半身、その肉棒は、既に生殖欲にギラギラと光り、立ち上がっていた。 「もう後には引けない!♡ 社を僕のものにしないと、笹木に取られちゃう!♡ それはやだぁ!♡」 緑仙は瞬く間に社のズボンとパンツを剥ぎ取ると、咄嗟に抵抗しようとする彼の手足を、押さえつけた。 体格差では社の方が上なのに、びくともしない。 寝起きで、まだ頭がはっきりしないことを加味しても、緑仙の細い四肢の力は凄まじかった。 火事場の馬鹿力ということなのか。それとも、少林寺拳法の秘奥か。 確かなのは、社はもう逃げられないということだ。 「大丈夫だよ」 馬乗りになった緑仙が、優しく言った。 「僕、社が気持ちよくなれるよう、頑張るから」 緑仙はゆっくり、社を押さえつける左手を離した。抵抗はできない。そんなことをすれば、殴られるかもしれない。原始的な恐怖が、社の心を蝕む。 細い指先が、顔にとぐろをまく精液を掬う。そして、ヌルヌルと指の腹を擦り合わせるとーー。 ピタリと、社の菊門に触れた。 恐ろしい予感が胸を貫く。 もがこうとする社の唇を、緑仙が奪った。 舌がねじ込まれる。昂りを示すように、彼の唾液は精子のようにドロドロだった。 数秒は楽しんでから、緑仙は唇を離した。 透明な糸が、橋をかける。 少女のような顔で、美しい笑みを浮かべながら、彼は囁いた。 「暴れんなよ。アナルって、デリケートみたいだから」 社の肛門に、異物感が生じた。 二本の細い指。 見慣れた友人の美しい指が、見知らぬ空気を纏い、潜り込んできた。 ただ、恐ろしかった。