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茶柱たべたべ
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ライスシャワーがコチョコチョでトレーナーを蹂躙する話 上

「ライス、お兄さまの笑顔がみたい」 「……ああ、そう」  トレーナーは困惑していた。  いつものトレーニングが終わり、今日は解散というところで、ライスシャワーから呼び止められたのが二十分前。  二人で話したいと言われ、人に聞かれたくない悩み事の相談かと思い、トレーナー室に招いたのが十五分前。  それからたっぷり十五分を使い、ライスシャワーから日頃の感謝を伝えられ、その締めの言葉が今のそれだ。  トレーナーはガシガシと頭を掻き、尋ねた。 「俺の……笑顔が、見たい?」 「うん」 「そっかぁ」  困った。本当に。  トレーナーは笑わない男だった。喜びを感じる神経が死んでいるのではない。単に、表情筋が死んでいるのだ。  別に過去に凄まじいトラウマがあってこうなったのではなく、生まれつきである。  それでも、ウマ娘のトレーナーという立場に身を置くにあたり、何とか親しみやすい笑顔を浮かべようと努力はしたのだ。  しかし、駄目だった。筋金入りの表情筋であった。  そのことは、三年間契約を結んでいるライスシャワーも知っているはずだ。 なのに、そんな自分を、彼女は笑わせたいという。  一体、どういう風の吹き回しか。  ライスシャワーはもじもじと両手を揉みながら、上目遣いで言った。 「えっとね、えっとね。ライスね、お兄さまがあまり笑わないのは知ってるよ? 笑わなくても、心の中で喜んでるのも知ってるよ? ……でも」 「でも?」 「この前、本で読んだの。笑うとストレスが解消されて、健康にいいって。ライスね? お兄さまに、いつまでも健康でいてほしいの。だから……」 「だから……俺の笑ってる顔が見たいと」  何とまあ、トレーナー想いの良い子である。  健気で、可愛らしい。  だが、しかし。 「ライスの気持ちは嬉しいけども。だけど……俺、この通りの残念な表情筋量だからさ。あまり、期待に応えられないというか」  一応、頑張れば口角を一時的に上げることはできる。だが、おそらくライスが言っている笑顔とは、自然に込み上げるタイプのものだろう。作り笑いではかえってストレスがたまるだろうし。  ばつの悪そうな顔をするトレーナーに、ライスシャワーはどういう訳か、自信満々な笑みを浮かべた。 「大丈夫。ライス、お兄さまを笑わせる方法、準備してきたから」 「……一応聞くけど、タキオンの薬じゃないよな」 「それは奥の手だから、今回は使わないよ」  不穏である。  しかし、とりあえず今回は正体不明の薬を盛られずに済みそうだ。トレーナーはほっと胸を撫でおろし、尋ねた。 「で? ライスは、どうやって俺を笑わせるんだ?」  会長印の駄洒落だろうか。あるいは一発ギャグ? 落語という線もある。しかし、そのどれで来られても笑顔で返せる自信がなかった。 「それはね。……えい!」  言うが早いか、トレーナーはライスシャワーに押し倒されていた。  目を白黒させている間に、彼女は腹に馬乗りになり、身動きできないよう地面に固定してきた。 「じっとしててね、お兄さま」  そして、ライスはその小さい手でもって、トレーナーをくすぐり始めたのである。 「こちょこちょこちょ! どうかな、お兄さま? ……何で、笑ってないの?」 「あ、いや……ごめん」  正直なところ、くすぐったくなかった。少しこそばゆさもあるにはあるが、くすぐる場所が悪いせいか、それとも彼女の指遣いが拙いからか、笑うまでには至らない。  というより。 (お、思ったより原始的な方法で笑わせにきたな)    そんな驚きが先に来てしまい、笑うどころではない。  困惑しつつも、ひとまず尋ねる。 「……俺を笑わせる方法って、これか? その、こちょこちょ」 「うん! これならライスでもお兄さまを笑わせられると思って! ……でも、お兄さま、笑ってない。ライス、こちょこちょも満足にできないのかな。うぅ……ライス、駄目な子だ」 「あ、いや! そんなことはないぞ!」  こんなことでライスシャワーに悲しい顔をさせたくはない。トレーナーは慌てて、言葉を選び、口にした。 「こちょこちょって、結構難しいからな。力加減だったり、場所だったり。うまく出来なくても、ライスは悪くないよ」 「力加減? 場所? うーん、こんな感じかな」  首を傾げながら、ライスシャワーはスリスリとトレーナーの身体をまさぐり始めた。依然として、くすぐったくはない。  そこで、トレーナは冷や汗をかいた。不味いことに気付いたのだ。何が不味いって、この体勢が。  担当のウマ娘に、乗られている。  馬乗りだ。  その上で、身体をまさぐられている。  ライスシャワーに自覚はないだろうが、この状況は非常にまずい。  誰かに見られたら一大事である。  トレーナーは落ち着いて、言った。 「ライス、一回降りて」  そこで、彼は言葉を切った。  切らざるを得なかった。  ライスシャワーの細い指が、彼の脇を撫でたのだ。  それも、絶妙な力加減で。  ぴくんと、身体が硬直した。 「お兄さま? ……い、痛かった?」  ライスシャワーが今にも泣きそうな顔で聞いてきた。 しまった、誤解させてしまったかもしれない。 トレーナーは慌てて、首を横に振った。 「い、痛くなんてないよ。ちょっと、くすぐったくて」    ぱあっと、彼女の顔に喜びが広がった。大きな目をキラキラさせて、ライスシャワーは嬉しそうに言った。 「良かったぁ……! じゃあ、こんな感じでこちょこちょしたらいいんだね! ライス、頑張る!」 「え!? あ、いや、ちょ、待っ……ひぃ!?」  彼女の細い指が、トレーナーの脇でウネウネ蠢く。先ほどと同じ、あるいはそれ以上のこそばゆさが襲いかかってきた。さっきの今で、凄まじい熟達だ。トレーナーは思わず、奇天烈な声をあげてしまう。 「あがっ! ぎひひ! ちょ、ライス! やめっ、ぶはは!」 「うわあ、お兄さまが笑ってる! 良かったぁ……こんなお兄さま、ライス初めて見た。えへへ、くすぐったい? だったら、これはどうかな?」  ライスシャワーは楽しそうに、指の動きを細かく変えてきた。力加減にも緩急をつけ、くすぐったさに慣れないよう工夫をしている。そのせいで、トレーナーの中で弾けるこそばゆさは、水風船のようにどんどん膨らんでいった。 「うふふ、お兄さま楽しそう! もっとしてあげるね! こちょこちょ、こちょこちょ!」  彼女の細い指が、縦横無尽に体をまさぐる。 先ほどとは違って、そのどれもがくすぐったい。 脇、首筋、横腹など、弱い部分を的確に突いてくる。 くすぐった箇所が少しでも強い反応を示せば、逃がすものかとばかりに追いすがり、ねちっこく責めたてる。  痛みこそ伴わないが、その様子はまさしく、一方的な蹂躙だった。 「はっ……ひぃ……あぁ……」  トレーナーは明らかに消耗していた。間断なく注ぎ込まれるくすぐったさが、脳味噌を犯していく。  何回か身を捩ってみたが、ライスシャワーの太ももが胴をガッシリ固定しているため、逃げることもできない。その癖、顔は涙が出るほど笑っているから、彼の苦悶を相手に伝えることもできない。  体をくねらせてくすぐったさを逃がそうとするも、ウマ娘の力で制されているのでそれすら叶わず。こそばゆさは体内で膨らむばかりだ。  そして。 (あ、やばい)  トレーナーは大笑いしながら、理解した。  自分の中に、さざめきがある。  膀胱が、熱くなっているのを感じた。  尿意だった。  ライスシャワーの細くて綺麗な指が、自分の脇腹を撫でるたびに、尿意のさざめきが煩くなるのを感じる。  つまり。 「ら、ライス! や、やめへ! も、漏れる! から!」 「え? 漏れるって、何が?」 「そ、その! にょ、にょうっ! が!」   「にょー?」  ライスシャワーは首を傾げながら、少しくすぐりを弱めた。それでも、充填されていくこそばゆさは強烈だった。尿意が神経を過敏にしているのかもしれなかった。  早くやめさせないと、本当にまずい。トレーナーは羞恥に顔を赤くしながら、言った。 「お、おしっこ! がっ! も、れるから! やめっ、て! らいす!」 「お、おしっ!?」  パッと、ライスシャワーが両手を離す。その顔は真っ赤になって、しかし、すぐに青くなった。  ヒュウヒュウと荒い息をするトレーナーを、彼女は不安げに見下ろした。 「お、お兄さま……大丈夫? ご、ごめんなさい! ライス、やりすぎちゃった?」 「い、いやっ……大丈夫。別に……悪気があって、やった訳じゃないんだし……」  そんなことを言いつつも、トレーナーの顔には玉のような汗がいくつも浮いていた。体中から水分が抜け出てしまうほど、くすぐったかったのだ。  彼はようやくライスシャワーを見上げ、彼女の目が今にも泣きそうなほどウルウルしているのに気づいた。 (やばい。このままだとライスが、今日のことを引きずってしまうかも)  ライスは優しく、繊細で、気弱な少女だ。その可能性は十分にあり得る。  トレーナーは笑うことなく、それでも、穏やかな口調で言った。   「でも、ありがとう。大声で笑ったから、スッキリしたよ。ライスのおかげだな」  へにゃりとなった彼女の耳が、ピンと立った。 「本当? ライス、お兄さまの役に立った? お兄さま、スッキリできた?」 「ああ、うん。スッキリしたよ」 (あやうく膀胱もスッキリするところだったけど)  口に出さないまでも、そんなことを思う。 (あれ? でも、割と本気でスッキリした感じがする)  確かに、最近はそれなりにストレスを溜めてきた。  トレーニング計画作成。マスコミ対応。その他雑務。そして山のような残業。  体に澱のように溜まり、こびりついていた疲れの塊が、笑い声に合わせて少し小さくなったような感じがした。  そんな彼を、ライスシャワーは心配そうな目で見つめていた。 「……あまり無理しないでね、お兄さま」  凪いだ声だった。トレーナー室の大気に溶けるような小さな声で、それでも彼女は確かな意思を眼に宿し、言った。  思った以上に、自分のことを心配してくれているようだった。  トレーナーは少し、どきりとした。  ライスシャワーは優しい子だ。だから、自分の疲れを気取られないよう、彼女の前ではいつも元気でいたつもりなのだが。  何でもないような声を作り、トレーナーは尋ねた。 「え? ……無理してるように見えるか?」  ライスシャワーはコクリと頷いた。その瞳は真っ直ぐ、トレーナーに向けられている。  不安そうな目だったが、しかし、どんな嘘もすぐに見破りそうな力が、奥の方から滲んでいた。 「見えるし、分かるよ。ライス、犬さんみたいに鼻が良いから」 「鼻?」  どうして、鼻が良ければ無理しているか否かが分かるのだろう。トレーナーは心の中で首を傾げた。  その疑問を、次のライスシャワーの言葉がほどいた。 「うん。お兄さまが強いストレスを感じてると、汗の匂いで何となく分かるの」 「え!? お、俺そんなに汗臭いか?」 「うふふ、そういう意味じゃないよ、お兄さま。ウマ娘は鼻が良いから、普通の人じゃ分からない変化も、簡単に気づけるんだよ」  そういうものなのだろうか。  しかし、ライスシャワーが嘘を吐くとも思えない。トレーナーは信じることにした。  そんな彼に、彼女は続けた。 「……それに、お兄さまの汗は臭くないよ。良い匂いだよ」 「そ、そうかなあ」  トレーナーは自分の腕をクンクンと嗅いでみたが、汗の匂いがうっすらするぐらいだった。あまり良い匂いではない。  それにしても、恐るべきはウマ娘の嗅覚だ。ストレスを隠しているつもりでも、筒抜けらしい。優しいライスシャワーのことだから、それで随分と気を揉んだことだろう。今回のくすぐり騒動だって、恐らくその気づきから端を発するものだろうし。  何にせよ心配させてしまったようだ。  気付けば、彼はライスシャワーの頭を撫でていた。 「ごめんなぁ、ライス。心配かけたな。こちょこちょ、ありがとうな」  すると、彼女は心地よさそうに目を閉じ、柔らかな息を漏らした。  夢を見ているようなフワフワした声で、ライスシャワーは言った。 「うぅん。良いの。ライス、お兄さまにいっぱい助けてもらったから。……今度は、ライスが助ける番」 「はは、頼もしいなぁ」  彼がしみじみと言えば、ライスはにっこりと、嬉しそうに笑った。  見るもの全てを祝福するような、天使の如き笑みだった。 (この笑顔を見るだけで、随分と助けられてるけどなぁ。これ以上のものを望んだら罰が当たるような気がする)  しかし、それを今言ったところで無粋だろう。  当のライスシャワーがトレーナーのことを助けると、張り切っているのだ。  理由は何であれ、モチベーションが上がっているならば、メンタルも安定する。パフォーマンスにも良い影響が出るだろう。  何より、彼女が自分のために頑張ってくれるというのは、嬉しい。  娘に肩たたきされる父親は、こんな心情なのかもしれない。トレーナーはそんなことを思った。   「お兄さまのストレスが減るよう、ライス、頑張るね」  ライスシャワーが呟いた。  独り言のような小さな呟きだった。  ぼそぼそと聞こえづらい。少なくとも、トレーナーの耳には入らなかった。 「だから……ライスを選んでね。お兄さま」  凝った情念の雫のような囁きは、誰にも届くことなく、床で弾けた。  トレーナーはその日、ライスシャワーのトレーニング風景を見ていた。  彼女の黒い髪が疾走に靡いて、美しく揺らいでいる。風の海を泳ぐように。  今日の天気は晴れ。眩い日が差し、幾つもの影がトレセン学園に伸びている。  それはライスシャワーも例外ではなく、小柄な彼女から伸びる漆黒が、トレーナーの方にまで届いていた。 (速くなったなあ)  しみじみと、トレーナーは思う。  ライスシャワーは才能のある子だ。体に備わったバネも天性のもので、彼と出会う前から十分に速かった。  その頃と比べても、今の彼女は別人のように速い。  当時のバネが、まだ末端しか垣間見えてなかったのではないかと思う程、成長した。  トレーナーと支え合い、歩んできた三年間は、彼女の心身を鍛え上げ、疾駆に鬼を宿らせた。   (あんなに小さかった子が)  数多のウマ娘の偉業を阻止し、ヒール扱いされた日々。  その度に聞こえてくる失意の声や溜め息に、涙を流す彼女に寄り添った日々。  ヒールではなくヒーローになろうと、シューズを何足もボロボロにするほど走り込む彼女を見守り、支えた日々。  その全てが瞼の裏に浮かび、心を温めてくれる。  ライスシャワーは、トレーナーの誇りだった。  それは指導者としてというより、彼女を傍で見てきた仲間としての誇りだった。  共に過ごした時間の濃さを考えるならば、家族と言ってもいいかもしれない。  父子ほど齢が離れている訳でもないが、トレーナーはライスシャワーのことを娘のように思っていた。 (優しい子なんだよなあ。……まあ、たまに突飛なこともするけど)  しんみりしているところに、地雷の如く突発的に思い出されるのは先日のこと。  ライスシャワーが彼を笑わせるため、これでもかとくすぐった日。  あのままコチョコチョとされていれば、確実に失禁していただろう。その時の醜態を思い出し、今更ながらに赤面する。 (本当にヤバかったよな、あれは。ライスの前で漏らしたりなんかしたら、次の日からどんな顔して会えばいいか分かんないし)  もしもライスシャワーが見た目通りのか弱い少女なら、簡単に逃げられただろうが、どっこい相手はウマ娘である。自分がどれだけ全力で手足をばたつかせても、羽毛を撫でるような柔らかい所作で制されるのが関の山だろう。それに加え、あの時はマウントポジションだった。天地がひっくり返っても逃げられないのは目に見えている。  絶対に力じゃ勝てない相手からのくすぐりというのは、中々に恐ろしいものだ。嫐られるようなものだし。 (しかし、あれだって善意からのものだったし、ライスが優しい子であることに変わりはないんだけど) 「お兄さま!」  そんなことを頭の片隅でぼんやり思っていると、ライスシャワーが近くに来ていた。  美しい紫の瞳が、こちらを見つめている。 「どうだった? ライスの走り」 「え? あ、うん。良かったよ。力強くて、綺麗だった。ライスはどんどん速くなるなぁ。俺も鼻が高いよ」  そう言って頭を撫でれば、あどけない顔がくすぐったそうに綻んだ。 「えへへ! お兄さまが喜んでくれて嬉しい! ライス、もっと頑張るね? だから、ライスの走ってるところ見ててね。お兄さま」  ライスシャワーはにっこりと笑い、再び駆けていった。走り込みだ。練習熱心な子である。 (本当に、よく出来た子だ。……なおのこと、彼女の前で漏らさなくて良かった。絶対トラウマになるだろうしな、大の男が失禁する姿なんて)  想像しただけで震えが走る。自分の醜態で、彼女を曇らせるなど。南無南無と、口の中で呟く。  その時だった。 「トレーナー?」  びくんと、背筋が伸びた。自分を呼びかける声に、聞き覚えがあったからだ。トレーナーはゆっくりと、そちらに目を向けた。  上等で涼しげなスーツ。  日光の角度によってはやや青く見えるなめらかな黒髪。  形のよい透けるような白い耳。   「き、桐生院トレーナー」  同期のトレーナー、桐生院葵が微笑んでいた。 「こんにちは。いやあ、今日は天気が良いですね。少し暑いですし、お互い熱中症には気をつけましょうね」 「そ、そ、そう……ですね」  トレーナーはしどろもどろになりながら、答えた。あまりにも突然声を掛けられたものだから、心の準備ができなかったのだ。  何故心の準備が必要かといえば、単刀直入に言ってしまうと、彼女に惚れているからである。   (桐生院トレーナー、今日も綺麗だな)  ぽわんと、頭にそんな思いが浮かぶ。  透けるような白い肌も、日差しを浴びて青く光る黒髪も、全てが清らかで美しい。  その肌に浮く、透明な汗に、釘付けになってしまう。  つうっ、と垂れていく。  首筋に。  鎖骨に。  服の中に。  やけに、色っぽく見えてしまう。 (い、いや。駄目だ駄目だ)  慌てて、ライスシャワーに視線を戻す。想い人に心を奪われ、挙句の果てにいやらしい目を向け、担当ウマ娘を疎かにするなど言語道断。 (こんな情けない姿、ライスには見せらんないよなあ。ったく、何してんだ俺は) 恥を知れと、自分に言い聞かせる。  そんな彼の心のうちなど知らない桐生院は、並ぶように隣に立つと、グラウンドを駆けるライスシャワーを見つめていた。 「ライスちゃん、今日も速いですね。脚力がしっかり蹄鉄に乗って、大地を弾いてるのが分かります」  桐生院はライスシャワーのことを「ちゃん」付けで呼ぶ。  普段は真面目で、礼儀正しい想い人が、こちらの担当ウマ娘のことは砕けた名で呼ぶ。それだけで、なんだか嬉しくなる。特別扱いされているようで、ぐっと距離が縮まったような気がするのだ。  もっとも、そういう考え方はライスシャワーをダシにしているようで、褒められたものではない。  だが、頭ではそう思っていても、喜びが後から後から湧いてくるのが、恋心の厄介なところである。  ひとまず、今日も今日とてトレーナーは恋慕の情を隠しつつ、言った。 「そう言ってもらえるとありがたいです。ライスのトレーニングが実を結んでる証拠ですから」 「ふふ。やっぱり、ライスちゃんの成長は見てて嬉しいですか?」 「勿論!」  トレーナーは目を輝かせた。 「俺は三年間、ずっとあいつを見てきましたから。楽しい時も苦しい時も、二人三脚でやってきたんです。そんなライスがこんなに立派に走ってるのを見ると、なんか、胸に来ますよ。やっぱり」  熱弁を振るうトレーナーに、桐生院は楽しそうに笑った。 「あはは、まるでお父さんみたいですね」 「あ。いや、まあ……そうですね」  少し恥ずかしくなって頬をかく。さっきまで桐生院に視線を奪われていたこともあり、どうにも後ろめたさがこそばゆい。  そんな彼を、彼女は愛しそうに見つめた。 「私もライスちゃんが成長するのは嬉しいですよ」    桐生院はニッ、と快活に笑った。 「だって、彼女はミークのライバルですから。ライスちゃんが成長すれば、ミークも良い刺激を受けます。それは、私とのマンツーマンのみでは手に入らない刺激です」  トレーナーはポカンとして、フッと、穏やかな目をした。 「桐生院トレーナーらしいや。全ての考えがミークに通じてる辺りが」 「私もあの子のお母さんみたいなものですから」 「あなたの歳を考えれば、お姉さんぐらいじゃないですか」 「ふふ。お上手ですね」  桐生院が口元を隠すようにして笑う。その挙動もどこかあどけなくて、可愛らしい。トレーナーは心底彼女に惚れていた。  彼女は耳元の髪をかき上げるように撫でて、「でも」と続けた。 「ミークを抜きにしても、ライスちゃんの成長は嬉しいですよ」 「え?」  桐生院はちらりとこちらを見て、再びライスシャワーに視線を向けた。 「あの子が頑張っていることを、私はよく知ってますからね。応援したくもなりますよ。何たって、私たちはウマ娘の頑張る姿が好きで、トレーナーになったんだから」 「……そりゃ、そうですね」  トレーナーもライスシャワーを見た。彼女の走る姿を見た。その後ろに積み重なる彼女の努力の日々を想った。  想い人と一緒に、自分の担当ウマ娘を見守っているこの時間が、尊くて、愛しかった。 「あはは。いけませんね。油断すると、すぐにウマ娘談義を始めちゃいそうになります。ミークの休憩も終わるし、そろそろ戻らないと」 「ああ。ミークを待たせてるんですか」 「ええ。今は日陰でにんじんジュースを飲んでるかと。……あ、そうだ」  そこで桐生院はトレーナーの方を向いた。  白い頬が、少しばかり赤く染まっている。 「今日のトレーニングを頑張るご褒美に、来週の日曜日、ミークと一緒に水族館に行く予定なんです。でも、そこは初めて行く水族館でして、勝手が分からないんですよ」 「な、なるほど。……つまり?」  桐生院は僅かに沈黙して、意を決したように笑った。 「つ、つまりですね。いつものように、一緒に下見に行きませんか? ほ、ほら! やはり二人で見て回った方が、当日の時間配分とか歩くコースとか、より正確に決められますから! 日時は次の土曜の午前中でどうですか? それで、その、午後は一緒にお昼ご飯を食べたり、とか」  トレーナーは心の中でガッツポーズをしていた。  桐生院とは、今回のように二人で水族館や旅館に行くことがたまにある。こうしたイベントがあると、彼は内心、かなり浮かれる。  仕方のないことだ。意中の人と二人で歩けるのだから。  考え方によっては、デートのようなものだ。 (いや、まあ桐生院トレーナーは絶対そんなつもりないんだろうけど)    彼女はいつだって、ハッピーミークを第一に考える。自身の担当ウマ娘に、どこまでも誠実に向き合う態度は、トレーナーの鑑だ。そんな彼女だからこそ惚れたのだ。だから、桐生院トレーナーが色恋に現を抜かすことなどないだろうと、トレーナーは思っている。仮に恋愛をするのだとしても、相手は自分のように笑顔一つまともに浮かべられない、むっつりとした男でないことも、重々承知している。  しかし、それはそれ。  いくら下見要員として付き合わされているのが実情だとしても、桐生院と一緒に水族館を回れる事実に変わりはない。だから、トレーナーは申し訳ないと思いつつも、毎度浮かれてしまうのだ。 「あの、トレーナー? どうされたんです、黙ったりして。も、もしかして……その日は予定がある、とか」  桐生院が上目遣いで尋ねてきた。その瞳に不安が滲んでいる。トレーナーは慌てて首を縦に振ろうとして──。  脇腹に、くすぐったさが弾けた。 「あひぃ!?」  素っ頓狂な声が漏れる。慌てて口を手で覆おうとするが、出来なかった。脇腹でくねくねと蠢く何かが、更に複雑で妖しい動きになり、こそばゆさが加速したのだ。  際限なく注ぎ込まれるこそばゆさに、思考が揺らいでいくのを感じる。  それでも、誰がこんなことをしているのかぐらいは、見当がついた。 「お兄さま、くすぐったい?」  案の定、背後からライスシャワーの声が聞こえてきた。  走り込みを終えてこちらに来たが、トレーナーが桐生院との会話に夢中で気付かなかったから、悪戯したというところだろうか。  なんとも可愛らしいと思う。  悪戯されるぐらいに信頼されていることを、嬉しくも思う。  しかし、それはそれである。 「ひっ! く、くすぐったいくすぐったい! がはっ、くふっ! だ、だから! ちょ、たんま! あひゃひゃ!」  隙間なく横っ腹に詰め込まれるくすぐったさに、トレーナーは不細工な笑い声を吐き続けざるをえなかった。  ライスシャワーのくすぐりスキルは、この前よりも確実に上がっていた。  どんな風に指を動かせば、トレーナーが噴き出すのか、隅々まで分かっているかのようだった。  このままでは不味い。体を反転させて逃げようとするが、その度に背後から、 「ついてく、ついてく」    という声が聞こえて、すぐに回り込まれてしまう。  どうしようもないくすぐったさに身を捩っていると、視界が滲み始めた。笑いすぎて涙が出てきたのだ。  ぼやける視界に、桐生院が映った。  彼女はしばらくキョトンとしていたが、トレーナーと視線が合うと、やがてクスリと笑った。 「ふふふ。ライスちゃん凄いですね。あの仏頂面で有名なトレーナーを、ここまであられもない姿に出来るなんて」 「あ、あられもないって……! ぶひゃひゃ! そ、そんな言い方ぁ……ひひぃん!」  引き笑いがいよいよ獣じみてきたトレーナーを見て、桐生院はなおも楽しそうに笑っていた。 「でも、トレーナーがここまで大笑いしてる姿を見たの初めてですから。何だか、微笑ましいです。仲がいいんですね、ライスちゃんと」  想い人に褒められるのは嬉しいが、状況が状況である。喜びとはベクトルの違う生理的な笑いが、次から次へと歯の隙間から漏れ出すので、トレーナーはほとんど懇願に近い形で言った。 「あ、ありがとうございます! で、でも、流石にちょっと苦しっ、あひゃひゃ! ら、ライス! 頼む! もう勘弁して!」  このままでは、また尿意が襲ってくる。桐生院の前で失禁したら、もう生きていけない。トレーナーは背後で指を動かし続けるライスシャワーに、涙目で頼んだ。  そんな彼の必死さが伝わったのだろうか。ライスは名残惜しそうに、彼の脇腹から手を離した。  膝に手をつき、肩で息をするトレーナーに、彼女は言った。 「ご、ごめんねお兄さま。で、でも……ライス、お兄さまに笑ってほしくて」  いけない。またライスシャワーが凹んでしまう。トレーナーは慌てて言った。 「あ、いや。良いんだ。その気持ち自体は嬉しい。ただ、流石に他の人の前で馬鹿笑いするのは恥ずかしいからさ。次からは誰もいないところでくすぐってくれ」 「え?」  彼の言葉に、ライスシャワーはポッと頬を赤くした。 「ふ、二人きりの時なら……良いってこと? ……えへへ。分かった。ライス、頑張るね」  彼女の黒く大きな耳が、ぴょこぴょこ揺れる。嬉しい時の挙動だ。  よく分からないが、喜んでくれたのならば良い。  もっとも、二人きりだとしても限度はある。少なくとも、前回のように失禁寸前まで蹂躙されるのは避けたい。  トレーナーはコチョコチョの加減について、ライスシャワーにどのように伝えるべきか、迷った。  言葉を選びながら、彼女の方を見た。  どきり、とした。  ライスシャワーは、こちらを見ていなかった。  その紫色の瞳は、刃のように冷たかった。  視線が大気を削ぐ音が、聞こえてくるような鋭さ。 (ライス?)  声を掛けようとして、その視線を辿る。  そこには、桐生院がいた。  彼女は柔和な笑みを浮かべていた。 「何だか凄いですね、お二人の掛け合い。ライスちゃんとの信頼関係がひしひしと伝わってきます。まるで親子みたいですね!」  桐生院はライスの視線については、特に言及しなかった。  気付いていないのか。あるいは気付いたうえで、あえて触れないのか。  もしかすると、ライスシャワーはそもそも、そんな凍えるような視線を投げてなかったかもしれない。全ては見間違えだったかもしれない。  虫も殺せないような優しい子だ。その可能性は十分にあり得る。 「あ、あはは。ありがとうございます」  トレーナーは頬を掻きながら、礼を言った。ライスシャワーの冷たい瞳は、気のせいだと思うことにした。  同時に、思い出した。  そういえば、先程の水族館の下見について、OKの返事を出していない。  彼は口を開いた。  返事を、しようとした。  だが。 「ライスとお兄さまは、親子じゃないよ」  喉の奥で、言葉が凍った。  そんなイメージが咄嗟に浮かぶほど、冷え切った声であった。  ライスシャワーの声。  ゆっくりと、そちらを見る。 「親子みたいに仲良いけど、親子じゃないんだよ? 桐生院さん」  開いた瞳孔から、眼光が鬼火のように揺らぐ。  あどけない少女の顔に、怖いものを宿らせて、ライスシャワーが笑っていた。


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